フェレットが悪役令嬢に転生!?赤羽育ちのアカの異世界生活【第1話】
※おふざけです!
北区、赤羽。
駅前には飲食店が並び、朝から人々が忙しそうに行き交う。
そんな街の片隅に、一匹のフェレットが暮らしていた。
名前は、アカ。
名前の由来は赤羽だから。
飼い主が「赤羽のアカたん。」と適当につけた名前だった。
本人が名前の由来を理解していたかどうかは定かではない。
ただし、ごはんの袋を開ける音と、自分の名前を呼ぶ声だけは、どんな物音よりも早く聞き分けられた。
「アカ、ごはんだよ〜」
その声が聞こえた瞬間、アカは寝床から飛び出した。
タタタタタッ!
短い足を必死に動かし、ケージの扉へ突進する。
「待って待って。今あげるから」
待てない。こちらは一分一秒を争う重大な局面なのだ。
ごはん。それは生きる喜び。
ごはん。それは人生の目的。
ごはん。それは世界の真理である。
少なくとも、アカの世界ではそうだった。
飼い主がフードを器に入れると、アカは夢中で食べ始めた。
カリカリ、カリカリ。
ときどき顔を上げ、飼い主の様子をうかがう。
まだいる。よし。取られない。
安心したアカは、再び食事に戻った。
食べ終わると、今度は部屋の探検だ。
ソファの下。
カーテンの裏。
洗濯物の山。
飼い主が「そこはだめだって!」と叫ぶ場所ほど、なぜか魅力的に見える。
アカは今日も、ソファの隙間に頭を突っ込んだ。
むぎゅ。
お尻がつかえた。
一度、後退する。
角度を変える。
もう一度、突入。
むぎゅむぎゅ。
入れた。
ビクトリー。
人間には理解できないかもしれないが、狭い場所に入り込むことは、フェレットにとって大切な仕事のひとつなのだ。
その日の夜も、アカは飼い主の膝の上で丸くなっていた。
テレビからは、異世界や魔法について語る番組の音声が流れている。
「もし異世界に行けるとしたら、どんな世界がいい?」
飼い主が画面を見ながら、何気なくつぶやいた。
アカは答えられない。
そんな難しいことはどうでもいい。
暖かくて、お腹いっぱい。そして眠い。
それだけで十分だった。
飼い主の指が、アカの頭を優しくなでる。
アカは目を細めた。
この手が好きだった。
ごはんをくれる手。
頭をなでてくれる手。
寂しいときに、そっと触れてくれる手。
言葉の意味はわからなくても、そこにある温かさはわかる。
アカは小さく鼻を鳴らし、飼い主の膝に顔を埋めた。
そして、そのまま眠りに落ちた。
それが、赤羽で過ごした最後の夜だった。
次に目を覚ましたとき、アカはひどく困惑した。
まず、匂いが違う。
いつもの毛布の匂いがしない。
飼い主の匂いもしない。
代わりに、花のような香水と、古い木材、それから妙に甘ったるい匂いが漂っていた。
なんだ、ここ。
アカは目を開けた。知らない天井だ。
というか天井が高い。
高すぎる。部屋も広い。広すぎる。
白いカーテンの向こうには、見たこともない庭園が広がっていた。
遠くには尖った屋根の建物が見える。
窓には色鮮やかな模様が描かれ、壁には金色の装飾が施されていた。
どう見ても、赤羽のマンションではない。
赤羽はこんなにおしゃんじゃない。
アカは起き上がろうとした。
その瞬間、異変に気づいた。
体が重い。
いや、正確には、長い。
手足がある。
しかも、いつもよりずっと長い。
アカは恐る恐る、自分の手を見た。
白くて細い指。
長い爪。
指輪。
手首には宝石のついた装飾品。
…………。
アカは固まった。
何だ、これは。
顔に触れる。
柔らかい頬。
高い鼻。
唇。
頭を動かすと、銀色の髪がさらさらと肩に落ちた。
アカは慌ててベッドから飛び降りた。
ドスッ。
着地した衝撃で、足首が少し痛む。
いつものように軽やかには動けない。
目の前には、大きな姿見があった。
アカはゆっくりと近づいた。
そこに映っていたのは、見知らぬ少女だった。
銀色の長い髪。
紫色の瞳。
透き通るような白い肌。
豪華な寝間着をまとった、絵画の中から抜け出してきたような美少女。
アカは鏡に向かって、そっと手を伸ばした。
鏡の中の少女も、同じように手を伸ばす。
右へ動く。
鏡の中も右へ動く。
左へ動く。
鏡の中も左へ動く。
アカは首をかしげた。
鏡の中の少女も首をかしげた。
しばらく考えたあと、アカはひとつの結論に達した。
これは、知らない人間だ。
そして、どういうわけか。
自分は、その人間になってしまったらしい。
「……きゅ?」
口から出たのは、フェレットの鳴き声ではなかった。
「え……?」
鈴を転がすような、少女の声だった。
アカは目を見開いた。
声が出た。
人間の声だ。
試しに、もう一度口を開く。
「あ、あ……」
声が出る。
しかも、自分の意思で音を変えられる。
アカは感動した。
これなら、今まで伝えられなかったことも伝えられるかもしれない。
例えばだ。
ごはんが欲しい。
もっとなでなさい。
そこにあるおやつをよこしなさい。
……いや、最後のは今までも行動で伝わっていた気がする。
アカは自分の手を握ったり開いたりした。
これは夢なのだろうか。
だとしたら、ずいぶんと変な夢だ。
早く目を覚ましたい。
飼い主のところへ帰りたい。
そう思った瞬間、頭の中に知らない記憶が流れ込んできた。
セレスティア・フォン・アーデルハイト。
十七歳。
アーデルハイト公爵家の令嬢。
王太子レオンハルトの婚約者。
そして、悪役令嬢。
記憶の中の少女は、いつも人々に囲まれていた。
豪華な食事。
美しいドレス。
広大な屋敷。
けれど、その表情には笑顔がほとんどなかった。
父親は忙しく、娘に関心を向けない。
婚約者は義務として接するだけ。
周囲の人々は、彼女の家柄と財産を気にしていた。
誰もが彼女を恐れ、誰もが彼女に媚びていた。
それなのに、彼女には心から信頼できる相手がいなかった。
アカには、それが少しだけわかった。
寂しい。
その感情だけは、言葉がわからなくても理解できた。
だって、アカも飼い主が帰ってこない日は、玄関のほうを何度も気にしていたから。
もっとも、飼い主が帰ってこない理由の大半は仕事だったのだが。
人間というのは、どうしてそんなに長い時間、外で働くのだろう。
家で寝ていればいいのに。
アカはそんなことを思いながら、記憶をたどった。
どうやら、このセレスティアという少女は、ある物語の登場人物らしい。
聖女候補のミリアをいじめ、王太子に執着し、最後には罪を暴かれて追放される。
つまり、このままでは、ろくな未来が待っていない。
アカは首をかしげた。
別に、王太子などいらない。聖女をいじめるつもりもない。
ただ、安心して眠れて、おいしいごはんが食べられればそれでいい。
それなのに、どうして追放などされなければならないのだろう。
人間の世界は、つくづく面倒くさい。
そのときだった。
コン、コン。
扉を叩く音がした。
「セレスティア様。お目覚めでしょうか」
知らない女性の声。
アカは反射的に身をすくめた。知らない人がきた!
逃げて隠れて、できれば、狭くて暗い場所に潜り込みたい。
アカは部屋を見回した。
ベッドの下。
カーテンの裏。
大きな衣装棚。
あった。
衣装棚の下に、わずかな隙間がある。
アカは床に這いつくばった。
そして、頭を突っ込んだ。
入らない。
当然だった。
今の体は、人間なのだから。
「…………」
アカは無言で立ち上がった。
もう一度、衣装棚を見た。
やはり入らない。
人生とは、思い通りにならないものらしい。
フェレットだった頃は、あんなに簡単に入れたのに。
扉の向こうで、再び声がした。
「セレスティア様?」
アカは覚悟を決めた。
人間の体になってしまった以上、人間として生きるしかない。
まずは、この世界のことを知らなければ。
それから、ごはんを探す。
できれば、飼い主も探したい。
あの温かい手が恋しかった。
アカは深呼吸をした。
そして、できるだけ上品そうな声で答えた。
「……どうぞ」
扉が開いた。
入ってきたのは、黒い制服を着た女性だった。
女性はアカの姿を見るなり、目を見開いた。
「セレスティア様……! ご無事だったのですね!」
ご無事。ご無事ですとも。
アカは首をかしげた。
女性は胸に手を当て、深々と頭を下げた。
「本日は王宮で、王太子殿下との婚約に関する重要な話し合いがございます。どうか、お支度を」
王宮〜?王太子〜?婚約〜?
聞き覚えのある言葉が、頭の中でつながった。
そして、セレスティアの記憶が告げていた。
今日。この日。
彼女は断罪されるはずだった。
アカは、ゆっくりと女性を見上げた。
「……ごはんは?」
「はい?」
「ごはん、食べたいです」
女性は、ぽかんと口を開けた。
それから、困惑したように微笑んだ。
「お食事でしたら、王宮でもご用意されております」
王宮でも。
つまり、ごはんがある。
アカの紫色の瞳が、ぱっと輝いた。
よし。
ひとまず、そこへ行こう。
断罪だか婚約破棄だか知らないが、食事があるなら話は別だ。
アカは差し出されたドレスに袖を通した。
鏡の中には、誰もが恐れる悪役令嬢が立っていた。
その中身が、赤羽育ちの食いしん坊なフェレットだとは、誰ひとり知らない。
こうして。
赤羽のフェレット、アカの異世界生活が始まった。
この日、ルナリア王国の王宮では、歴史に残る事件が起きることになる。
王太子の婚約者である悪役令嬢が、断罪の場で最初に口にした言葉。
それは。
「おかわりをください」
だった。
第1話・完
次回、第2話「悪役令嬢、朝食を巡って王宮を騒がせる」
王宮の朝食に感動するアカ。しかし、食卓に並んだ料理から、妙な匂いが漂っていた。
その匂いの正体を知ったとき、アカは初めて自分に備わった不思議な力を知ることになる。

